店主、一日かけて、映画、絵画、そして、コンサートを満喫する。
前日の「海の日」の祝日営業の代わりに、この日はお休みをいただきました。
というわけで、欲張りというか、貧乏性というか、せっかくの平日休みを充実させようと躍起になった一日の始まりです。
まずは午前中、信濃町で野暮用をすませた後、映画でも観ようと新宿に移動。
書店で「ぴあ」でも開いて、ロードショー情報を収集しようと思い、ハタと気づいた。
「もはや、情報誌ぴあは存在しない...」
エンタメ情報はネット検索で得るのが当たり前の時代。学生時代、映画館のはしごの必携の書であったこの雑誌も、数年前に休刊の憂き目にあっていたことを思い出したわけです。
さて、困った。
普段主戦場がカフェ店内の店主は、その必要性を感じたことがないのでスマホは持ち合わせておらず、しかたがないので、記憶を頼りに新宿に点在する映画館を徒歩で巡るはめに。
しかしながら、観たかった映画、おもしろそうな映画は、すでに打ち切られていたり、上映時刻が過ぎていたりで、なかなか都合のいい作品が見当たらない。
新宿はあきらめて、今夜チケットを押えてるコンサート会場がある有楽町エリアに移動してさらに探してみるものの、シネスイッチもシャンテもマリオンも軒並みだめ。
この炎天下の街歩きに、クーラー依存症の軟弱な店主が限界を向かえつつあったその時、有楽町イトシアの中にも映画館があるのを発見。
そして奇跡のように、どんぴしゃりほどなく上映開始の作品があるではありませんか。
「ママはレスリング・クイーン」
下調べした上で映画を観るパターンであれば、真っ先に外されかねないタイトルであります。でもでも、贅沢は言ってられないこの状況、店主は迷わずチケットを購入して入館。
なんと、フランス映画でした。
フランスでプロレス?
ありなのです。これが。
お話は、ムショ帰りのシングルマザーが、つれない息子の気を引くために、同じスーパーで働く仲間を誘って老レスラーの元に入門を決意。息子が大のプロレスファンだったからでした。なぜかメキシコ女子プロチームとの対戦も決まって、彼女たちは猛特訓を開始するのですが...。
WWE(米国人気プロレス団体)が、本作のリメイク権、配給権の獲得を発表しているそうなので、プロレスの本場ならではの絢爛豪華なハリウッド版もそのうちお目見えするとは思いますが、店主はそれでも本作をお勧めすると思います。
基本はコメディ。でも笑いの抑制は効いていて、平凡なレジ係の女性たちをプロレスという絵空事の世界に放り込み、対戦相手に対して、そしてそれぞれ抱える問題に対しても、たくましくなっていく過程をフランス映画らしく細やかに描き込んだ良品でした。
考えてみると、事前情報なしに飛び込みでロードショーを観たのは生まれて初めて。
でも、ときに冒険は、意外な展開をもたらすものです。
この映画は思いがけず当たりでした。
さて、映画は観れた。
国際フォーラムで開かれるコンサートの開演まではまだ時間がある。
ならば、画をみよう。
そう、会場の目と鼻の先にある三菱一号館美術館では、前々から気になる展覧会が開催中。
それが、「ヴァロットン展」。
聞けば、パリで31万人を動員した回顧展がアムステルダムを経由して東京に巡回してきたものでありました。
去年、日本で開催された展覧会の動員数をみても、30万人越えはほんのわずかしかないことを考えれば、一般的には知られざるこの画家に対するパリの熱狂ぶりは想像に難くないのであります。
このスイス生まれの画家、フェリックス・ヴァロットンといえば、平板な黒と白の大胆なコントラスト表現を用いた木版画によって、絵画の普及版的コピーの手段におとしめされていた版画を再び芸術表現の域に高めたことが知られておりますが、ナビ派に属していた時期、そしてその前後、数多く制作された彼の油彩作品にもスポットを当てて再評価しようというのが今展覧会の大きな意義。
確かに、木版画に注力していた1890年代に並行して描かれていた油彩画には、特に驚くべき作品が多かったと思います。
なんといっても、木版画のスタイルを転用したフラットな色面や輪郭線で描かれた油彩表現は明らかな現代性を放っておりますし、一見変哲もない日常の一コマを描いているようでいて、次の瞬間、不穏な事件の幕開けにも見えてくるヴァロットンの作品には、一筋縄ではいかない画家の鋭い観察眼を感じてしまいます。
忘れ去られた画家に光が当たるときはいつもそう。
預言者の如き仕事を一人していたわけですね。
床と椅子の赤がほぼ一体化しております。永遠に目覚めることはないかのような宙に浮いた裸婦...。
「肘掛け椅子に座る裸婦」1897年
油彩、合板に張り付けた厚紙 28×28cm
グルノーブル美術館蔵
さてさて、映画も、絵画も観れた。
コンサート開演時間もいい感じで迫ってきたので、店主、三菱一号館美術館から徒歩一分の国際フォーラムへ。
この夜同会場で観るのは、吉田拓郎。
拓郎?
天沼のカフェの空気には、この大御所シンガーソングライターは相容れないものがあると思います。
何を隠そう、店主は中学時代、フォークブームの最後の方に引っかかった遅れてきたフォーク少年でありました。
数年ぶりのコンサート参戦でしたが、当然ながら相変わらずお年を召した方の比率は高し。
店主もここでは、比較的下の年代であります。
そもそも、中学生だった店主はラジカセから流れてきたある唄を聴いてから、心のどこかにポッと火が灯ってしまって、それが今に至るまでずっとくすぶり続けているような感がありまして。
奇しくも、この日の一曲目は、その唄「人生を語らず」。
朝日が昇るから起きるんじゃなくて
目覚める時だから旅をする
教えられるものに別れを告げて
届かないものを身近に感じて
超えて行けそこを
超えて行けそれを
今はまだ人生を語らず
今聞いても意味不明な歌詞であります。
当時も、よく分からないながら、怒鳴り散らすように歌われる勢いそのままに、生まれて初めて「人生観」らしきものを意識させられた唄であったのでしょう。
以来さまざまなことに関心は移ろいできましたが、年を重ねても「吉田拓郎」だけは、心根にある画然たる枠組みに納まりつづけているというわけです。
国際フォーラムを後にした店主は上機嫌で、親友Hくん(彼も長年に渡る希少なる拓郎狂)とJRガード下の赤提灯へ。
焼き鳥と昔話を肴に、ホッピーの杯をどんどん重ねてしまった夜となりけり。